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熱帯のパラダイス
2007年03月21日 (水) | 編集 |
Sony Ericsson Open(フロリダ・マイアミ/ハード・アウトドア)

なんか女子の大会みたいね、この名前って。去年まではNASDAQ-100 Openとして知られていたこのマイアミ大会ですが、今年から携帯電話会社のここがタイトルスポンサーになりました。でもNASDAQもスポンサーとしてこの大会のサポートは続行するようです。

いやーしかし、相変わらず派手ですなあマイアミは。なんだかプレイベントが華やかに行われている。毎年恒例のイルカちゃんとの戯れや恵まれない子供たちへの物資運びももちろんあり。1年ぶりですねイルカちゃん。このイルカは去年と同じ子なのかな。違うのかな。今回は、ニコちゃんにクエリー君、ベルちんといった選手が参加しているようですね。以前はルビとかマルちゃんとかコリアとかがイルカちゃんと戯れていたっけ…あぁコリア…今何やってるのかなあ。

そしてこのマイアミはファッションショーが5つもあるとか、夜はクラブでパーティーがあるとか、なんとも華やかな話がずらり。楽しそうでいいですねえ。もうすっかり「第5のグランドスラム」といった感じですね。しかし、この大会がここまでなるまでは大変な道のりがありました。そこらへんをちょっとご紹介。

60年代、まだオープン化される前は、テニスの大会がスポットライトを浴びることはあまりありませんでした。ツアーもこじんまりしたものだったようで、「ステーションワゴンで」アメリカ国内を回っていた、とのこと。コートも即席で作られたものだったり、寂れた場所だったり。そんな中プレーしていた選手たちの中にあった希望は、壮大なものでした。「マイアミに大規模なテニストーナメントを作りたい」。

当時選手として活躍していたButch Buchholzさんもその一人で、70年代に肘を痛めて選手生活にピリオドを打ちますが、彼の第二の人生がここから始まります。80年代、当時ATPの役員だった彼の夢にThomas J. Lipton Companyが興味を示し、150万ドルの大会がリプトン主催で行われることになりました。

「冬のウィンブルドン」と呼ばれたこの年の初めの男女共催の大会(当時全豪は12月開催だった)をファーストクラスの大会にすべく、Buchholzさんは当時ウィンブルドンのトーナメントレフェリーだったアラン・ミルズさんや一流デザイナーだったTed Tinlingさんらに働きかけ、ATPやWTAにも賞金や売り上げの一部や放映権を提供し奔走します。そしてその見返りに、今後15年間この大会を運営するという契約を結ぶことに成功します。

しかし、当初は多くの反対もあったようです。
「関係者やトップ選手たちは最初は懐疑的だった」。あのバド・コリンズさんも、最初はそんな共催なんて必要ない、と言っていたといいます。しかしとにもかくにも、85年についに始まったこの大会、最初の年はデルレービーチで行われたそうですが、トップ選手も数多く参加し、放送局も地元アメリカを始め8カ国が参加。その中には日本のテレビ局もあったそうな。そして初年の優勝者は、男子がTim Mayotte、女子がMartina Navratilova。ナブラチロワはエバートとの決勝だったそうです。

しかしたった1年やったばっかりだったのに会場のLaver’s International Tennis Resortが諸問題で使えなくなり、Boca Ratonへ移転。しかしそこもまた諸事情で使えなくなりまた新しい場所を探さなくてはならなくなりました。そこで、WTAツアーのディレクターでマイアミデード郡のmanager(訳がわからない)だったMerrett Stierheimの助けをもらってマイアミに新しい施設を作ることになり、いろいろ見て回った結果、今の場所であるキービスケーン島に隣接するマイアミデード郡立公園に決めました。

「街を離れて、長い橋を渡り終えると、そこは、熱帯のパラダイスだった。」

ていう感じのここのロケーションが気に入ったんだそうな(笑)。まさにそんな感じだよねー。とにかくこの大会を世界にアピールする一流の大会にしたい、ていうのがこの人の夢でした。そしてその夢の実現に向けて、施設が次々と作られていって、その過程にはいろいろな苦労もあったろうけども、サンプラスやアガシやクーリエやグラフやら当時の名選手が口をそろえて「世界でベストなすばらしい施設」との賞賛するだけのものを作り上げました。時代が変わって選手が変わった今でも、Buchholzさんを始め多くの人の汗と涙の結晶であるこの会場の評価は、変わっていません。

2005年にはラファエル・ナダルの名を世界に知らしめたあの王者ロジェ君との歴史的決勝戦がありましたっけねー。そして去年は、男女の賞金が同額になり、ツアーで初めて(かな?)CGによるライン判定が導入されるなど、常に時代の先端を行くマイアミ大会は、トーナメント・オブ・ザ・イヤーも何回も受賞している、テニスツアーの中でも大きな位置を占める大会になりました。そしてこのマイアミ大会を誕生から20年以上育て続け、まさに第二の人生をこの大会に捧げているといってもいいBuchholzさんは、その功績が称えられ、2005年、クーリエやヤニック・ノアらとともにテニス殿堂入りしました。

現在では当たり前のように行われているこのような大会も、なにもないところから始まって、多くの人の熱意と努力の積み重ねがあって、今があるんですね。

ドローの話はまたそのうちに。

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